先日15日の午前、
大好きなおばあちゃんが天国へ旅立ちました。
まさかというくらい突然のことで、
今でも信じられません。
親しい人たちには
「介護している」
と話していた父方の祖母ではなく
横須賀で一人暮らしをしていた母方の祖母です。
原因は進行胃癌でした。
3月に突然、食べ物を口にできなくなり
娘である母が病院へ連れて行くと、お医者様は
「精密検査をしてから確定ですが、ほぼ胃癌で間違えないでしょう」
とのことで急遽 入院が決まりました。
けれどそのときも祖母は食べていないのにしっかりしていて
「回覧板を回さなきゃいけないので入院はできない」
と断ったそう。
もちろん入らないわけにいかない状況なので、入院したのですが…
秋田出身の祖母は、秋田弁が混ざりながらも
「〜かしら?」
「〜だわ」
と上品な話し方をして、
お料理・掃除・裁縫のすべてが上手で
お庭にもたくさんお花を咲かせて家庭菜園もしていました。
けれど専業主婦だったかというとそんなことはなくて、
約15年前に他界した旦那さん(私の祖父)は
身体が弱く何度も入院していたようなので、
家のことは完璧にやり、『内助の功』でありながらも
ときに一家の柱として働いていた妻であったと聞いています。
だからこそ、病気が原因で勤め先で倒れてしまうことを繰り返し、
リストラになってしまった祖父も
私が幼い頃には司会業や三味線の先生をしていて
いつも仕事が楽しそうで、
演歌歌手の方との写真や生徒さんのお話、
自分のステージに私を呼んでくれて
(多分、私は音痴なんですけど)
歌ったら喜んでくれていて
もうひとりの祖父も自分の好きなことを仕事にしていたということもあるのですが
「好きなことを仕事にする」
ということが当たり前なのだと思って大人になりました。
なにかの記事か本で
「女性が幸せを感じる瞬間は子供ではなく孫を抱いたとき」
というようなことを目にしたことがあるのですが
(理由は子供だと嬉しさ反面、プレッシャーや不安がある。
けれど孫のときは子育てを卒業し、不安なことがなく幸せでいっぱいになるというような理由)
祖母はいつも優しくて、
ここ最近でも会うのは多くて月1くらいでしたが、
いつもいつもたくさんの愛情を与えてくれました。
祖母のお誕生日は12月なので、昨年(4ヶ月前)のお誕生日の日に仕事休みにして遊びに行ってお祝いをして、
「来年の80歳もまたお祝いしに来るからね」
と言って約束をしました。
今年は仕事のスピードを頑張ってあげて、
そうしたら来年あたりに余裕ができるという考えで
来年になったら最低でも2週間に1回、
できたら毎週祖母に会いに行こうって目標のひとつにしていました。
3月まで人に見せなかったのか、
本人は「なんでこんなことになっちゃったんだろう…これまで何もなかったのに」
と言っていたのですが、私からしても年齢で体力が低下していても、
それが病気だと思っていなかったので、
自分の判断や、来年たくさん会うという勝手なスケジュールを立てたことに
ここ数週間、心底 後悔しました。
今、新卒フリーランスでやっていけているのは
周りの人の協力や指導のおかげと、
自分が大学時代に遊ぶことと程遠い環境でそれなりに努力したから。
だから社会人になっても
今頑張れば、あとでもっと楽しい未来が待っているんじゃないかと思ったけれど、
時間というものは〝生きていたら〟という前提であって
無限ではなく有限のもの。
その限界が
「夏までもたないでしょう」
とお医者様に言われてしまうほど間近にあった祖母の状態を知ったときには、
自分がこれまで頑張ったことさえ後悔しました。
「頑張ったと言っても、同年代だって私よりすごい人たーくさん知っているし、こんな中途半端で、大事なおばあちゃんに恩返しできていない。
だったらもっと仕事とか仕事に繋がるかもしれない話のアポイントを優先するんじゃなくて、おばあちゃんのところに行けばよかった」
とよくわからない言い訳をしていました。
けれどたくさん言い訳をしていると、次に見えたことがあって
「そもそも仕事を優先したことより、昨年の私は流せばいいことに執着をして頭を悩ませ、ストレスを溜めていた時間が多かったので、その時間に早く割り切って仕事をして、時間つくっておばあちゃんのところに行けばよかったな」
と本当に悔しかったことは、
使うべきでないところに無駄なエネルギーを使っていたことなのだと気が付きました。
母曰く、祖母は本当に働き者で
幼い頃は祖母の母が病院へ入院したときに9歳下の弟さんのことをご飯つくったり面倒を見てあげて、
結婚したら旦那さんの分も働いたときがあったくらいで、
一人暮らしになってからも周りの人に迷惑をかけないようにと
いつも自分より周囲の人の幸せを考えている人でした。
特に心に残っているのは、
娘である私の母のことをいつまでもいつまでも大切にしていて、
大学生になって一人で祖母のところに遊びに行くと、
「おばあちゃんのところに来てくれることもすごく嬉しいけど、お母さんのことも助けてあげてね^^」
とよく言っていたこと。
高齢で一人暮らしって寂しいはずだけど、それでも祖母は自分のところに来ること以上に娘である母を笑顔にしている方が嬉しいって言っていました。
1週間前の金曜日の今頃は病院に駆けつけ、
「うん」と喋るのさえまともに言えず、
痛がる祖母をみんなで見守り、
娘である母たち姉妹はほとんど寝ずに看病していたし、
私も「寝ていいよ」と言って仮眠室に従姉妹や兄弟と移動したけど
寝られたのは90分くらいであとは横になっているだけ。
そして朝になり、15日は
祖母の旦那さんである祖父の月命日と同じ日にちでした。
明け方7:00か8:00くらいに何も話せない祖母は
枕もとに置き、いつも持ち歩いているポッシェットのような小さいカバンに
何度も何度も手をかけていた。
定期入れサイズに切り取った大事な写真は祖母の隣に置いてあったので
「おじいちゃんの写真あるよ」
と、母も私も従姉妹も何を探しているのかわからなかった。
「こんなときにおじいちゃんの写真より大切なものってなんだろう?」
考えたし、バックを見たけど眼鏡や時計、
ハンカチやティッシュ、お財布や鍵、
あとは入院してしまった数日後に私が書いて持っていった手紙くらいしかなくて
何を探しているのかわからなかった。
その数時間後に祖母は息を引き取りました。
この日は母の妹(叔母)の旦那さんのお母さんの49日だったので、
叔母は一度病院から帰り、祖母が亡くなった1時間後くらいに戻ってきていた。
そこで
「そういえば指輪どこ?
お母さんがこの前、痩せちゃったからお父さんからもらった指輪が外れちゃって、
『ないない』って大騒ぎしていたんだよね。
探したら見付かって嬉しそうにバックにしまってたよ。」
というので、母や従姉妹と
「指輪か!!」
と言った。
祖母が最後の最後まで探していたのは指輪だったんだ。
たまたまバッグを持っていた私は急いで探した。
…
…
「あれ?ない・・・」
「嘘でしょ?」
みんなで小さな鞄から荷物を出してポケットを見てもない。
「ない」
…
そんな矢先に叔母の旦那さんが
「あれ!?
…
あった!!」
「それ菜穂からの手紙」
なんと私が書いた手紙の封筒の中に、ティッシュに包んで大事にしてある指輪を入れてあったのでした。
母は
「宝物(私からの手紙)の中に宝物(旦那さんからもらった指輪)を大事にしまったんだね^^」
と言ってくれました。
手紙は身内に書くのはなんか恥ずかしいし、
書く予定はなかったけれど
お世話になっている方に祖母が進行胃癌だと話したときに
「お手紙書いてあげたら? 私も上村さんから貰った手紙を、あのあと何度も読み返しているよ。
心がこもっているものってわかるし、見る度に嬉しくなるから」
と言っていただけたので書くことにしました。
渡したのはいいものの、叔母曰く
「菜穂の字が小さくて、おばあちゃん喜んでいるけど一人で読めなかったよ!笑
今度書くときはもっと大きな字で書いて!」
と注意?アドバイス?を受けましたが(笑)
なので祖母が指輪を入れてくれた手紙を見てから考えました。
祖父も祖母のことが大好きだったそうで、
祖母は祖父のことが大好きで、
亡くなってしまって約15年、写真をたくさん飾って、持ち歩いて
祖父の三味線や歌声のカセットテープを毎日聴いて。
それくらい大切な人からもらった大事なプレゼントを、
最後の最後に自分が書いた手紙の中に一緒に収めてくれたのはすごく嬉しかった。
「おばあちゃんにもっと、こうしてあげればよかった。ああしてあげればよかった。」
そんな後悔は、もう一生修正できるものではないけれど、
これから喜んでもらえるとしたらなんだろう? と。
やっぱりそんなときに浮かぶのは、
祖母の娘である私の母の存在。
祖母は母の幸せを心から願っていたし、
母は幼い頃からよく勉強していて
中・高と学年トップで、高卒だけれど業界No.1の一流企業に入って
そこでも成果を出して
「菜穂ちゃんのお母さん、小さい頃からずっと頑張っていたんだよ」
と話しているのが嬉しそうでもあったけれど、
父の父は亭主関白だったので仕事を辞めざるを得なくなったので
(父方の)祖父のことを悪く言うことはなかったけれど
どこか悔しい気持ちもあったんじゃないかなと思う。
旦那さんが病気で倒れちゃって、
自分は働きながら家のこともやって、
子供が自主的に勉強頑張ってくれたらどれほど嬉しいんだろうなと。
だから母は専業主婦だったけれど、
私にたくさん教育してくれたから
その一つで、私が幼稚園の頃に泣きながらでも3年間絵日記を毎日書かせ続けてくれたから
小学生のときに先生や友達から字や作文もよく褒めてもらったし、
高い授業料の学校へ進学したのに、勉強が嫌すぎてサボっていた中学生の頃も
「上村、作文は上手いんだな」
って担任のおじさん先生が褒めてくれた。
それが今、「文章で表現をする」という仕事となっている。
だからおばあちゃんは、私が仕事を頑張って社会に貢献したら
お母さんの分も貢献したらきっと喜んでくれる。
昔は嫌で嫌でたまらなかったけれど、
おばあちゃんが育てたお母さんの教育がよかったって証明できる。
まだ中途半端な結果しか出せていないけれど、
お母さんが専業主婦だったからこそ、
「女性が家で仕事ができたらいいのにな。 それで家のことや子育てをして、その人が生きがいを持てたらいいな」
と小学生のときに思ったことが実現できる社会を、
フリーランスのライターになって
「これが私が幼い頃から望んでいた働き方だ! 会社が好きな人は会社で働けばいいけど、家で自分のペースで仕事をしたい人はフリーランスをもっともっと選べるようにしたい」
と思ったものを、
やっぱりまたここからつくりたいと思った。
あとなぜかWordpressがエラーになり、
再設定をしたら今までの記事のPV数が吹き飛びました。 (;_;)
ここ最近、祖母の死の次にショックなことです。
色々失ったけれど、また再スタートで頑張ります!